人気、カリスマ性、リーダーシップの正体は「決めてもらえること」にあります。
決断とは、決定する一方で、他の道を断つことでもあります。
あなたもある決断をして「失敗するのではないか」「後悔するのではないか」という不安と恐怖で、問題を先延ばしにし放置してしまうことはありませんか。
もし、その悩みや宙に浮いたままの問題を解決してくれる人がいたら、人はそういう人についていきたくなるものです。
また決断が遅れるまたは決断をしないときというのは、不確定要素が多い場合(やってみなきゃわからない!)や、より多方面かつ様々な角度からの情報収集・分析・比較が必要な場合で脳は大きなエネルギーを消耗し、ストレスを受けます。
よって、多くの一般的な人は決断を自らはほとんどしていません。
よく観察してみると「今からどうするか?」を決めるときですら「なんか、食べに行く?」「〇〇さんが〇〇っていうラーメン屋が美味しいって言ってたー!」などと言った提案はすれど、「じゃあ、そこに行こう!」と決定する人は限られています。
一度、「決断」「決定」に注目して人間関係を観察してみてください。
夫婦間でもイライラする案件は、言うだけ言うくせに「決めてくれない」ことへの不満が多いです。
政治家も同じです。
問題らしきものを揉むだけ揉んで、揉みしだいて「はて?何だっけ?」みたいな。
決断をせずして、問題をこねくりまわしドツボにハマっている人や組織は多く散見されます。
私がこの記事を書こうと思ったのは、Dance Company Uzmeという団体の主宰や、イベント・各種講座の主催をする中で、いつもなぜかすべての意思決定を私がやっているなぁとふと気付いたからです。
決定権を委託していても、何度伝えても「〇〇でいいですか?」「どうでしょう?」とLINEやメッセンジャー、メールで決定することを求められます。
正直、私にだって不確定なことは「やってみなきゃわからない」わけですが、経験や直感を頼りに決定していかなければ行動に移せず、全体が進みません。ならば30点でもいいから仮決定のAプランで走らせてみて、懸念点A・B・Cに対応できるBプラン、Cプラン、Dプランも用意しておこう!と言ったふうに考え決定します。
私以上に優秀な人、才能のある人がいたとしても、なぜか決断だけはしない人ばかりです。
私よりも能力が高い人はこの世にたくさんいるのになぜ私に多くの人が集まるのか?は、私に圧倒的な決断力があるからなのではないかと思いました。「決める」と同時に「責任」を背負うことになります。この「責任」を背負うことから多くの人は逃げるわけですが、私にはビジョンや目的があるため手段は問わず、早めにどんどんと決断していきます。
そのスピードは自分でも意識的に素早くしています。なぜなら、早めに結果が知りたいからです。
結局、普遍的な成功法則やレシピは状況、時代、人、目的によって大きく変動しますし、素粒子レベルで見たときには規則や法則など存在せず、飛び飛びに世界はできていて連続的なものではないからです。
だから、今この瞬間「決めてやってみたらいい」ただそれだけのことです。
Uzmeの札幌公演でも、本番が近づくにつれ、団員・スタッフなどありとあらゆる人間からの質問回答に私は追われます。
また、質問者は緊急度も重要度も様々なところから、思いついた順に質問を投げてくるため、私の脳のエネルギー消耗は多大なものとなります。
一番、自分のパフォーマンスに集中したいときに限って、質問が多く投げられます。
一人が5つ質問しただけで、私は5×20個の問題処理を脳内で同時に行うことになります。
「冬佳ちゃん、明日は何時に集合する?」
→ 今、聞かなくてもいい
「今日の夜ご飯はなんか考えてる?」
→ そんなに重要ではない
「衣装は持って行った方がいい?」
→ 全体連絡に送ったんだけどな
「シーン3の演出はこんな感じはどうか?」
→ とても重要で今決めるべきこと
どうしても私は団体全体、公演全体、お客様までを広く見通しているために、一人一人への回答が雑にしているつもりはないけど「今はその件は後にして」と答えざるを得ないことも多々あり、「なんか冬佳さん、不機嫌?」「怒ってるのかな?」「気持ちを受け取ってもらえなかった...」などと思わせてしまうこともあったようでした。どうか、この記事を読んで、別に嫌っていたり感情的になっていたわけではないことを理解してくれたら嬉しいです。
なぜ、その件は後にしてほしいのかの理由を普段なら合わせて伝える時間的・精神的・脳のストレージ的余裕もあるのだけど、本番前にはその余裕を生みだすことは不可能です。
そうならないように、事前にタイムスケジュールや、資料を準備していても、質問する側も「自分も何かしないと!」と張り切っているため、思いついた順に突発的に聞いてしまうのはそうした「現場」の動きに触れる機会が減ったからなのかもしれません。それは情報化社会の弊害だと私は思います。何でもネットで知った気になれてしまうことで、現場感覚の重要性が薄くなってしまったのかもしれません。
私はバレエの恩師や造園師をしていた頃の親方には「わからないなら『動くな』『喋るな』『触るな』」と言われていました。
一般的には「わからないことは聞け」かもしれないけど、実は師弟関係を結んだ間柄ではこちらから教えを乞うことは許されません。
習うではなく、盗む。
聞く前に、観察する、考える。
学校教育でしか物事の習得や上達を目指したことがない人には、先生と生徒という関係性から方法や細々した一個ずつを習うのが当たり前で、師の在り方から発せられる全てを倣う(ならう)というのはよくわからない世界かもしれません。
そして私自身も札幌から帰ってくるまで、質問に答えることについてさほど問題に思っていませんでした。
自分の育った師弟の間柄では、確かに「誰かに聞く」「決断を人に委ねる」はあり得なかったのですが、それがここまで大きな問題だとは思っていませんでした。
「わからないことは聞け」なのか「わからないなら黙っとけ」なのかという些細に感じる違いも、組織での動きになったときにはとてつもなく大きなズレになっている!!!という気付きがありました。
確かに実際の私の脳内は深刻な事態に陥っていることも思い返せばとても多く。
緊急度や重要度が異なる問題に対応することは、脳を常に高い警戒状態にさせます。これは、慢性的なストレスや疲労、そしてバーンアウト(燃え尽き症候群)につながることがあります。
重要な決断が続くと、人の注意力や集中力は徐々に低下します。特に、緊急性の高い問題に集中することが多いと、長期的な計画や創造的な思考がおろそかになる傾向があります。これは、舞台の質にも影響を与えかねません。
継続的な決断のプレッシャーは、感情的な安定性にも影響を及ぼします。焦り、イライラ、不安などの感情を経験することがあり、これが座組全体の士気にも影響を与える可能性があります。
もちろん、それらのリスクを事前に回避する手立てを十分に打っていますが、多くの人が関われば関わるほどに不確定要素は増していき、常に臨機応変な対応力と決断力を求められます。
このような環境下でも、目的に向かって意思決定をし続けていると、やはりどんどん能力は開発されていきます。それによって今の私があるとも言えます。
だけど、札幌から帰ってきて、身体はそこまで疲労してないはずなのに、なぜか何もする気が起きず、何も考えたくない状態、誰にも会いたくない状態が続きました。
それを決断疲れというらしく、これは案外、人気者、カリスマ、リーダーに多い案件だなと思い、記事にしてみました。
あなたも、できる限り決断を意識的にしてみてください。
人が本当にあっという間に周囲に集まります。
今回は、大量決断をした際の弊害や悲観的な側面を多く書きましたが、実際には決断を今より少し多くするだけでリーダーの助けになったり、自分に人がついてくるようになりあなたのやりたいこと、実現したいことを促進させます。
私は、やっと自分の状況を言語化できたので、団員や仲間に共有し理解してもらい、よりよい作品を生み出す組織にしていきます。